【考えの足あと】自分を表現すること――法政ゲートウェイ講義
今年も、立教大学・法学部の授業で、1年生さんたちに、司法書士の仕事について、話をさせて頂きました。
毎年、私は、学生さんたちに、進路の選択についての、ひとつの方法をも、提案しています。
――自分の問題意識を育てること。
「正社員×専業主婦」。そして、「正社員の共働き」。これまで標準となってきた「仕事と人生」が成立しにくくなってきた、いま。それらの標準に、自分の「仕事と人生」を合わせるのではなく、自分の興味関心を深めたり、自分の問題意識を育てたりすることによって、その先に、自分の「仕事と人生」を見出す方が、より充実して満足のいく「仕事と人生」を選ぶことができるのでは。そのように、提案しています。
むしろ、いままで、この社会における、たくさんのひとびと、そのひとりひとりの「仕事と人生」について、「標準」が存在してきたことが、特殊な現象だったのかもしれません。
自分の問題意識を育てて、その先に、自分の「仕事と人生」を見出すこと。
そのことは、「仕事と人生」の「個人化」ともいえます。そして、「個人化」は、「多様化」でもあります。
「仕事と人生」が「個人化」して「多様化」していった先に、おそらく、次のようなことが、問題になるでしょう。
――ひとりひとりの「仕事と人生」が「個人化・多様化」したことによって、ひとびとの間での、意思の疎通が、その分、難しくなる。
――これまでのような、「標準」の「仕事と人生」を前提としての、以心伝心による相互理解は、成立しにくくなる。
この問題に対応するためには、ひとびとが、「自分を表現すること」(自分の興味関心や問題意識を表現すること)が、これまでよりも更に、大事なことになってくるでしょう。
ここまで書いてきて、私は、スタジオジブリの映画である『耳をすませば』、そのヒロインである月島雫が、自分なりの表現として、小説を書き始めている場面を、思い出します。学生さんたちにはもちろん、私たちにも、このような時間が、ますます必要になってくるのでしょう。
そして、「自分を表現すること」は、「他者と分かり合うこと」はもちろん、「自分自身を分かること」にも、つながります。
いままで、私が、学生さんたちからOB訪問を受けてきたなかで、印象に残っている、学生さんからの質問があります。
――自分に、どういう興味関心があって、どういう問題意識があるか、どうすれば分かるんですか?
そもそも、自分に、どういう興味関心があるのか。自分に、どういう問題意識があるのか。それらのことについて、自覚することが難しい若者がいるようなのです。むしろ、私も、かつては、そのような若者の、ひとりだったのでしょう。そして、そのことを、いまは、すっかり忘れているのでしょう。
また、親をはじめ、若者の、まわりのひとびとからの、「ああしたほうがいい」「こうしたほうがいい」などという、良かれと思っての助言が多すぎて、若者が、かえって、自分の興味関心や問題意識を見失っていることも、ままあるようです。
自分の、興味関心の、探り方。自分の、問題意識の、探り方。そのひとつとして、次のような方法が、ありうるでしょう。
――自分にとって、思い出ぶかい、読書の体験や、活動の体験。
――それらの「個人的な体験」について、振り返って、どのようなところが、思い出ぶかいのか、その感想を、書き出してみる。
先に述べた『耳をすませば』の雫のように、いきなり、独自の表現を始めることは、その素地が、余程、できあがっていない限り、難しいでしょう。
他者の表現から、触発を受けて、自分なりの表現を試みる方が、誰にとっても、始めやすいはずです。
このことに関連する、作曲家・武満徹さんの言葉を、ここに引いておきます(「暗い河の流れに」『武満徹エッセイ選』ちくま学芸文庫)。
――異なった声が限りなく谺しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動し続けている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである。
そして、自分の興味関心や、自分の問題意識は、一度で簡単に分かるものではなく、自分なりの表現をくりかえしてゆくうちに、分かってくるものであるようです。
このことに関連して、漫画家・安野モヨコさんの『鼻下長紳士回顧録』(祥伝社)において、その登場人物である作家・サカエが、次のように語っています。
――才能とは… 何か特別なことではなく
――ただ… ひたすら継続して書いていくことだと
――自分を掘り下げ続けても絶望しない能力だと気付いたのだ
――たとえそこに何もなかったとしても
そして、この言葉について、私は、最近、次のようなことを、思っています。
――「何もない」とは、「自分のなかに何もない」ことと同様に、「他者からの反響も何もない」ことをも、意味している。
最初のうちは、他者の表現(響き)に触れたときの、自分なりの表現(反響)も、微弱だったり、無きに等しかったりします。その微弱さは、その自分なりの表現(反響)に対する、他者からの表現(再反響)の微弱さにも、つながります。
このように、自分の興味関心を深めたり、自分の問題意識を育てたりする作業は、最初のうちは、孤独な作業となるのでしょう。その孤独に耐えてゆくこともまた、必要となるのでしょう。
ここで、私は、憲法学者・樋口陽一さんの言葉を、あらためて、思い出します(『「日本国憲法」まっとうに議論するために』〔改訂新版〕みすず書房)。
――自由な個人として生きることは、自由からくる淋しさに耐えながら、生きることでもある。
以上、若者たちの、進路の選択にあたっての、「仕事と人生」の、「個人化・多様化」をふまえての、ひとつの提案でした。
さて、ひとに勧めるのならば、私もまた、「自分を表現すること」を、続けてゆかねばなりません。「たとえそこに何もなかったとしても」