【考えの足あと】「アバター」という言葉から

 連想。成年後見人も、本人の化身として行動するという意味では、一種のアバターです。
 コンピューター世界において起こっていることと、同様のことが、法の世界においても、同じ時代に、起こっています。これは、どういう現象なのでしょう。
 しかも、成年後見人のほうは、本人も、後見人も、生身の人間なので、どちらがどちらに乗り移っているのか、明確には判断できません。
 ※ 余談。自分の意識と、他人の意識との区別がつかなくなる現象は、特に幼児期・高齢期に起こりやすい現象です。
 私自身、私が本人に乗り移っているのか、本人が私に乗り移っているのか、区別しかねています。
 そうした区別のつきにくいことが、「代行意思決定か・意思決定支援か」に関して、議論がまとまらないことに、つながっているのではないでしょうか。
 ここまで考えてきて、個人的に気が付いたこと。現在の社会システムにおいては、「一人の人間には、ただひとつの人格がある」ということが、前提になっています。一人の人間について、ひとつの人格であり続けるよう、プレッシャーがかかり続けている社会。
 だからこそ、代理人が意思決定するのか、本人が意思決定するのか、という問題が、発生することになります。
 ただ、本当に、「一人の人間には、ただひとつの人格しかない」のでしょうか? 精神科医である中井久夫さんが、よく参照した、アメリカの精神科医であるサリヴァンというひとは、「人間には、役割の数だけ、人格がある」という見解を、書き残しています。
 もっとも、現在の社会システムは、「一人の人間には、ただひとつの人格がある」という前提で動いていますので、おいそれと、この前提を崩すわけには、いかないでしょう。「昨日の私は、今日の私とは、違う人格ですので、昨日の私がした約束を、今日の私が守る筋合いは、ありません」という論法が成り立つことになりますと、契約というものが、およそ成り立たなくなります。
 しかし、逆に、「人間には、ただひとつの人格がある」という原則を、全ての場面において適用していることによって、その原則では解決できない問題が起こってきているのであるならば、「複数の人格が一人の人間に混在していい、または、一人の人間に複数の人格が混在していい、その例外場面としては、どういう場面がありうるのか」を、考えてみても、いいのかもしれません。
 その一つの極端な場面が、「人間が、考えることを、やめたとき」でしょう。認知症の症状のあるひとに、後見人が就任していい根拠のうちひとつは、ここにあることになりそうです。
 ただ、認知症の症状のある方々を、ひとくくりにして、「考える力がない」と扱うことは、もちろんできません。認知症には、その進行について、段階があります。「代行意思決定か意思決定支援か」という問題については、認知症という症状の進行の具合を、もっと丁寧に観察すると、新しい手がかりを得ることができるかもしれません。
 そして、そもそも、「考える力」とは、どういう力なのでしょうか。
 以上、論点の掘り出しでした。

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