【法学】中山竜一『法学』岩波書店 ~ちいさな本で法学入門①~

中山竜一『法学』岩波書店 2009.7.30 シリーズ「ヒューマニティーズ」
https://www.iwanami.co.jp/book/b257604.html

 社会システムの骨組みとして、法体系が、あるのでは?
 そのように理解することによって、学生さんたちにとっても、スタッフさんたちにとっても、法というものが、分かりやすくなるのでは?(考え過ぎかも…)
 そうした問題意識から、同じような発想で書いてある本を、探してみたら、この本に辿り着きました。

 著者の中山竜一さんは、法哲学者。
「法学は、本当に『パンのための学問』なのか。そうだとしたら、学生時代、貴重な4年間を、そうした『生活のためだけの学問』に、費やしていいのだろうか?」
 法学部に入学したてで、こうした悩みを抱える学生さんに向けて、中山さんは、この本を書いたといいます。そして、その学生さんは、若かりし頃の中山さん自身でもあったそうです。

1 制度知としての法学

「法学とは、『人が生きることのできる空間』として諸々の制度を設立し、それを維持するための一種の『制度知』にほかならない」

〔中島コメント〕

 人が生きることのできる空間。この空間のことを、「社会システム」と言い換えることも、できそうです。

 中山さんによる「空間」の概観について、図にしたものを、掲示しておきます。
 私がこれから着手しようとしている「登記法の体系化」は、この図のうち、主に「民法」の形成している空間について、更に拡大化・構造化してゆく作業であるといえます。

2 制度的想像力

 人が生きることのできる空間。その空間について学ぶためには、想像力が必要である。こうした趣旨のことを、中山さんは、この本において、述べています。

〔中島コメント〕

 私も同感です。法学において、必要となる学力は、「フィクションについての想像力」なのでしょう。この力は、「小説を、物語を楽しむ力」にも、通じるものがあるでしょう。
 受験勉強において、相当程度の知識を入力して、試験のときには、出てきた問題に対して、すぐ、反射するかのように、知識を出力する。こうした学力とは、また、性質の違うチカラが、法学においては、必要となるのでしょう。
 ただ、「相当程度の知識を入力する」ことも、一定程度は、必要になるのではと、個人的には、考えています。私にとって、法についての学習が、ひときわ面白くなってきたのは、司法書士試験に合格するほど、知識を蓄積してからでした。

3 法解釈による法創造

 既存の制度知によって、明確には結論の出ない問題が発生したとき、法学徒は、法解釈によって、新たな法を創造する。たとえば、裁判所による判決を、後追いするかたちで、国会が法律を制定することがある。
 中山さんは、「法解釈による法創造」の重要性を、強調しています。

〔中島コメント〕

 私自身、実務において、明確には結論の出ない問題が発生したとき、法務局または裁判所もしくはその他の機関に対して、個人的な法解釈について述べた「照会票」を提出して、相互の意見を調整して、手続を進めています。
 その意味では、私も、難解な個別案件について、法解釈による法創造、その役割を、担っていることになります。私のみならず、他の司法書士さんたちにおいても、同様でしょう。専門職としての腕前の見せ所は、こうした「法解釈による法創造」という場面に、あるのではないでしょうか。

 正直な話、ひとに対して、司法書士実務について、そのノウハウを伝えるときに、一番と言っていいほど難しいのが、この「照会票の書き方」です。「照会票の書き方」の難しさは、「法解釈による法創造」の難しさでもあるのでしょう。そりゃ難しいはずです…

 照会票の書き方。法解釈による法創造。そのために必要となる能力に関しては、ふたつの段階が、ありそうです。
第一段階 基礎力 レポートの組み立て方
第二段階 専門力 法解釈学
 そしてさらに、司法書士としての仕事においては、「法解釈によって到達した結論について、依頼者に、分かりやすく説明する」という能力も、必要になってくるでしょう。
第三段階 伝達力 口頭・文章・図解
 ここまで考えてきて、個人的に、堀田善衛さんが『ミシェル 城館の人』において引用していた、フランスの思想家、モンテーニュの言葉を、思い出しました。
「ここだけの話だが、私はつねに、もっとも天上的な思想と、もっとも現世的な生活の間に、奇妙な一致があることを見て来た」
「私には、われわれの学問のうちでは、もっとも高く昇ったものが、もっとも現世的かつ下界的であるように思われる」
 最もよくできた法解釈は、一般市民の方々にとっても、最も分かりやすいものであるのでしょう。

 以上、法学に関して、必要となる能力について、まとめますと、下記の通りとなります。

前  提 想像力 フィクションについての想像力(言葉による思考のチカラ)
第一段階 基礎力 レポートの組み立て方
第二段階 専門力 法解釈学
第三段階 伝達力 口頭・文章・図解

 学生さんたち、スタッフさんたちに対して、どのような手順をふんで、実務について、伝えていったらいいか、その構想が、個人的に、より具体的になってきました。

4 解釈の方法

 法の解釈について、「利益衡量論」という方法論がある。この方法論は、「適切な結論を発見するため」の方法論である。
 そしてさらに、「発見した適切な結論について、『その結論を正当化してゆく』のための理論」がある。その理論に関しては、次のA・Bの二説がある。
A ドゥオーキン説 社会秩序には一定の法則があるものと仮定して、その法則から、結論を正当化してゆく。
B アンガー説 社会秩序には「自由の法則」と「衡平の法則」との二項対立があるものと仮定して、その対立のなかから、結論を見い出す。そのように結論を見い出すことは、その人間にとっての、態度決定である。

〔中島コメント〕

 中山さんの紹介しているB説は、堀田善衛さんが『ミシェル 城館の人』において提示した判断枠組に、近似しています。これから、私が、人生において、のっとってゆこうとしている、判断枠組です。個人的には、B説にのっとって、法の解釈に、あたってゆきます。

5 ギリシャ ローマ 12世紀ルネサンス

 法思想の源流は、ギリシャにある。ギリシャの法思想を、ローマが継受した。そして、ローマにおいて発展のあった法思想を、時代を隔てて、ヨーロッパの12世紀ルネサンスにおける知識人たちが、さらに継受することになった。

〔中島コメント〕

 山之内靖さんの『総力戦体制』においても、堀田善衛さんの『ミシェル 城館の人』においても、ギリシャの思想にまで遡って、現代の問題について、考え直してみることの重要性、その指摘がありました。
 この本によって、思いがけず、ギリシャの思想が、いかに、その後の時代と連関しているのかということについて、イメージを得ることができました。素敵な余得でした。

6 アリストテレス 正義 法の下の平等

 ギリシャにおける法思想は、アリストテレスの思想において、結晶した。
『ニコマコス倫理学』『弁論術』
 ※ なお、アリストテレスの法思想にのっとったキケローによる『弁論家について』も、現代の法学徒にとって示唆のある、重要文献である。
 そのキーワードは、「正義」。その「正義」とは…
「等しきものは等しく扱え」
「各人のものを各人に」
 つまり、「正義」とは、「法の下に平等であること」。

 たとえば、アメリカにおいても、憲法裁判において、最も問題になりやすい事案は、「法の下の平等」に関する事案である。こうした事情に関しては、阿川尚之『憲法で読むアメリカ史』(全)ちくま学芸文庫に詳しい。

 なお、中国思想においては、正義とは、「ひとが歩むべき正しい道」のこと。
 中国思想と、西洋思想とでは、「正義」の意味が、異なっている。

〔中島コメント〕

 ギリシャにおける法思想について、まず、参照するべきは、アリストテレスの思想。
 よき示唆がありました。

 思えば、日本においても、その社会にとって重要な憲法判例は、「法の下の平等」についてのものが、多いのではないでしょうか。
 尊属殺人重罰違憲判決。非嫡出子相続分差別違憲判決。夫婦別姓合憲判決…

7 法の継受 中国法・西洋法

 日本は、二段階にわたり、海外から法を継受してきた。
 直近では、西洋法の継受があった。更に昔、中国法からは、律令制度を継受した。

〔中島コメント〕

 上記の記述を読んで、個人的に、思うことがありました。当初、この本を読みはじめたときの問題意識とは、離れますけれども、ここに書き留めておきます。

 日本ナショナリズムは、「日本の伝統の復活」として、「憲法の改正」を、主張しています。
 ただ、憲法そのものが、西洋の法を継受してできたものですから、本当に「日本の伝統」を突き詰めると、憲法は「改正するべきもの」ではなく「廃止するべきもの」となるのではないでしょうか。
 そして、その先において、日本ナショナリズムは、中国からきた律令制度まで、否定する考えなのでしょうか。『古事記』『日本書紀』を、日本人の準拠するべき原典とするひとたちは、中国思想、律令制度の否定まで、含意しているのかもしれません。
 ただ、日本の伝統が尊い、すなわち、古いものほど尊い、ということになりますと、日本が日本ではなかった時代にまで遡って、その当時の集団意識のほうが、日本成立当時の集団意識よりも、更に尊い、ということになるのではないでしょうか。
 人類の原点は、アフリカで生きていた、ひとりの女性、「ルーシー」にまで、遡ることができるそうです。そうなると、「ルーシー」の生き方が、いちばん尊い、ということに、なるのでしょうか。
 「日本の伝統が尊い」「古いものが尊い」とする考え方については、遡れば遡るほど、「日本人が、日本人であることに、こだわらなくていい」という考え方に、到達することになるのではないでしょうか。
 そもそも、「古いものが尊い」とする考え方は、中国思想による考え方です。そして、「はじめに日本ありき」とする考え方は、「はじめに言葉ありき」とする西洋思想にのっとって、「言葉」を「日本」に置き換える、考え方です。
 「古いものが尊い」。「日本が最も古い」。日本ナショナリズムは、日本に独自のものを追求しているようでいて、中国思想、西洋思想から、影響を受けているようです。

 その日本ナショナリズムが、なぜ、「憲法の改正」に、こだわるのか。
 その理由は、おそらく、大日本帝国憲法時代の憲政が、為政者にとって都合のいい憲政だったからでしょう。
 ということは、ポツダム宣言にいう、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去」が、日本国民自身の手によって、まだできていない、ということになるでしょう。
 このあたりの事情に関しては、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(上・下)岩波書店に、詳しいようです。「敗北した日本の為政者たち」を「アメリカの為政者たちが抱きしめた」。
 戦時中、為政者の地位にあったひとびと。彼らの思想を汲んでいるひとびとが、いまも、日本社会において、為政者の地位にあること。そして、その為政者たちが、日本ナショナリズムを鼓吹しながらも、アメリカの為政者と、親和的であること。そうした憲政についての構図の根源は、『敗北を抱きしめて』が指摘する、敗戦直後の憲政についての構図にあるようです。

 新年、その一冊目にふさわしい、今後の学習についての基礎となる、好著でした。

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