【展覧会】丹下健三 1938~1970 戦前から東京オリンピックまで

丹下健三 1938~1970 戦前から東京オリンピックまで
https://tange202t1.go.jp/

 建築家・丹下健三さん。1913~2005。
 東京オリンピック、大阪万博。戦後、高度成長期の建築物について、その設計を、主導したひと。その仕事をたどる、展覧会。
 今日が、最終日でした。
 高度成長期は、日本において、都市化が、いっそう進展した時期でもありました。その都市化を主導したひとでもあった、丹下さん。その丹下さんは、より具体的には、どのようなひとだったのでしょう。そのことに、個人的に興味があって、この展覧会を、観に行ってみました。

第1 内容要約

1 戦争と平和

 丹下さんは、広島平和記念資料館を、設計。資料館の、その前方には、川を挟んで、原爆ドームが。
 彼岸は、異界。此岸は、現実。
 丹下さんは、この資料館を、生者が死者と向き合うための場所として、設計した。
「ここは、平和を生産する工場である」

 また、丹下さんは、淡路市の、戦没学徒記念館も、設計。
 丹下さんは、その竣工式と同時に、自衛隊による観閲式があることを知り、設計者であるにもかかわらず、式典を欠席した。

2 近代と伝統

 その丹下さんは、戦時中、「大東亜建設忠霊神域」を、計画したこともあった。皇居と富士山とを結ぶ地点に、慰霊のための施設を、設置する計画。

3 戦後民主主義と庁舎建築

 丹下さんは、戦後、都市に人口が集中して、その人口が過密になることについて、肯定していた。
「労働者たちが、就業の機会を得ようとする行為は、戦後復興に欠かせない、都市現象である」
 人口が、過密になってゆく、東京。その東京都庁を、丹下さんは、設計。ロビーに集まるひとびとを、エレベーターで各階へ分散してゆく、目論見。実際には、予定していたよりも多くの職員が、勤務することになって、庁舎の内部の、過密は、解消できなかった。

4 大空間への挑戦

 丹下さんは、その建築技術をもって、建物内部に、広々とした空間を、設けることに、挑戦した。
 その挑戦の、代表作が、東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
「コンクリートのなかに、精神的な小宇宙を」

5 高度経済成長と情報化社会

 高度成長期、東京の人口は、更に過密になっていった。
 その時期に、丹下さんは、「東京計画1960」を、発表。
「東京は、同心円型の都市ではなく、複線型の都市になるべき」
「このことは、脊椎動物の胚から、脊椎が発生していくことと、同じこと」

 また、高度成長期、日本は、工業化社会から、情報化社会へと、変容していった。
「ひとの動きは、情報の動きである」
 その観点から、丹下さんは、山梨文化会館などを、設計していった。

6 五つのキーワードの総合

 上記、1から5までのキーワードを総合する設計作品として、国立代々木競技場がある。

第2 中島コメント

 異界への理解。平和への思い。工業化から情報化への先見。
 丹下さんが、個人的に、親近感を抱くことのできるひとであったことが、分かりました。

1 平和を生産する工場

 広島平和記念資料館についての、丹下さんの、言葉。
「ここは、平和を生産する工場である」
 丹下さん、独特の、表現です。この表現については、個人的に、思うところがあります。
 生産のためには、資源が必要になります。資源について、ひとは、ともすると、それを、外地に、求めます。外地に、それを、求めることは、ともすると、帝国主義につながってゆきます。そして、帝国と、帝国との、外地での、資源の奪い合いが、ともすると、戦争につながってゆきます。
 「生産」という言葉と、「平和」という言葉には、意味として、相容れない場面が、ありうるでしょう。

 この考えに関連して、もうひとつ、考えが浮かんできましたので、ここに、個人的に、書き留めておきます。
 そういえば、歴史のなかで、「社会主義」が登場してきた文脈のひとつに、「帝国主義への対抗」という文脈が、あったはずです。
 たとえば、作家・堀田善衛さんは、『上海にて』(集英社文庫)において、社会主義建国当時の中国が、欧米の資本家たちによる、中国の労働者たちの、酷使に対して、社会主義運動によって、対抗してゆく様子を、ルポルタージュとして、書き留めています。
「帝国主義VS社会主義」
 それが、いつのまにか、「自由主義VS社会主義」に、変わりました。そして、「自由主義が、社会主義に、勝利した」ことになりました。「自由主義の勝利」は、「帝国主義の勝利」でも、あったのかもしれません。
 ただ、「それでは、社会主義国家は、帝国主義国家ではなかったと、言えるのか」といいますと、そうでもありません。
 ひとまずここまで、個人的に考えたことを、書き留めておきます。

2 人口集中による経済成長

「労働者たちが、就業の機会を得ようとする行為は、戦後復興に欠かせない、都市現象である」
 都市へ、人口が集中すること。そのことは、どのような因果を経て、戦後復興(経済成長)へ、つながってゆくのでしょう。
 この因果について、個人的に、興味があります。

 また、この因果が成立するとなると、逆に、経済成長がひと段落した社会では、地方への、人口の分散が、起こることになるのか、どうか。そのことについても、個人的に、興味津々です。

3 梅棹忠夫さん

「工業化社会から、情報化社会へ」
「ひとの動きは、情報の動きである」
「東京は、同心円型の都市ではなく、複線型の都市になるべき」
「このことは、脊椎動物の胚から、脊椎が発生していくことと、同じこと」
 丹下さんの、これらの指摘は、文化人類学者・梅棹忠夫さんが、『情報の文明学』『文明の生態史観』(いずれも中公文庫)において、指摘していたことと、似通っています。
 丹下さんと、梅棹さんとは、大阪万博についての企画において、協働していたそうです。
 梅棹さんの学問から、丹下さんの設計へ、何かしらの、影響があったのかもしれません。このことも、個人的に、興味深いです。

4 追記1 都市への人口の集中とハコモノ

 丹下健三さんは、この展覧会からの、個人的な印象としては、「シンボルとしての巨大なハコモノを作ること」が得意なひとでしたようです。
 そのなかでも、特に、東京都庁が、個人的には、印象的でした。
 丹下さんの設計した、東京都庁のことを、個人的に、思い返していて、私の脳裏に浮かんできた、仮説について、ここに書き留めておきます。
 戦前からの、日本の経済が成長していった時代に、都市への、人口の集中が、なぜ、起こったのか。
――経済について、巨大化するためには、組織についても、巨大化する必要があった。
――そして、通信手段が発達していない時代には、その分、ひとびとが、一ヶ所に集中して、仕事をする必要も、あった。
――だから、都市へ、人口が、集中した。
――さらに、だから、東京都庁のような、巨大なハコモノが、必要になった。
 以上、私の、仮説です。

5 追記2 現代での人口が集中する必要の有無

 そして、この仮説が、もし、正しいとすると、現代の、通信手段の発達につれて、ひとびとが一ヶ所に集中して、仕事をする必要も、無くなってゆくのかもしれません。

 ただ、本当に、「ひとびとが一ヶ所に集中して、仕事をする必要が、無くなってきた」のかどうかについては、まだ、検証が、必要でしょう。
 同じ場所での、対面による会話ですと、短時間に、やりとりできる、情報量が、豊かです。
 原本であることが必要な書類については、ひととひととが遠隔で仕事をする場合に、どちらで、何を、保管するかが、問題になります。
 また、複合機のように、「ひとびとが一ヶ所に集中して、仕事をする」ことが、前提となって、できている、便利な設備もあります。
 このことに関連して、小倉昌男さんが、その著書である『経営学』において、次のように語っていました。
――システムの構築順序は、ヒューマンウェア、ハードウェア、ソフトウェア。
 この順序で、本当に、「ひとびとが一ヶ所に集中して、仕事をする必要が、無くなってきた」のか、検証してみても、いいのかもしれません。

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