【見聞】京都 ~清新ということ~

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 昨年中は、大変お世話になりました。
 本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 昨年の年末に、機会があって、京都へ行ってきました。そのお出かけにて、私が見聞したことについて、ここに書き留めておきます。

1 京都への関心――湯川秀樹さん

 私が京都に関心を持つようになったきっかけは、物理学者・湯川秀樹さんのエッセイを読んだことでした。湯川さんは、人呼んで「科学界の詩人」。王朝文学に親しみ、自らも和歌を詠んで、楽しんでいたひとでしたそうです。その湯川さんが、「源氏物語と私」というエッセイを、書いていました(『湯川秀樹歌文集』講談社文芸文庫)。そのエッセイには、次のようなことが、書いてありました。

――京都には、紫式部の住居跡がある。
――その住居は、いまは、寺になっている。
――その寺は、私が高校生だった頃の、通学路の途中にあった。
――私は、いつも、紫式部の住居跡のそばを通って、通学していた。

 紫式部の住居跡。そこに、私も、行ってみたくなりました。
 なお、湯川さんのエッセイについて、その面白さを、私に教えてくれたひとは、作家・小川洋子さんでした。小川さんは、湯川さんのことを、「博士のなかの博士」と書いています(『みんなの図書室』PHP文芸文庫)。もしかすると、『博士の愛した数式』(新潮文庫)の、「博士」の、そのモデルのひとりが、湯川さんだったのかもしれません。

2 京都駅――アニメと特撮の「聖地」

(1)酒の神・カグラ様

 京都駅に降り立った私の目を、まず惹いたのは、土産物屋の店頭に飾ってあった、いわゆる「美少女」のイラストレーションでした。「酒の神・カグラ様」。清水をまとい、稲穂を抱く、女神。透き通った色彩の、美しいイラストでした。このイラストは、京都の酒造業者である松井酒造さんが、イラストレーションの第一線で活躍するイラストレーターである米山舞さんに依頼して、制作したものであるそうです。老舗の酒造と、現代のイラストレーターとの、連携によって、生まれた作品。その透き通るような色彩から、私は、作家・堀田善衛さんの言葉である「現実とは切れたものの美しさ」を、思い出しました。

(2)京都アニメーション

 京都駅の構内には、複数の箇所に、アニメーションの制作会社である「京都アニメーション」の作品にまつわるポスターが、飾ってありました。京都市もまた、豊島区と同様に、アニメによる町おこしを、図っているようです。

(3)怪獣映画『ガメラ3 邪神覚醒』

 京都駅には、天井が、視界いっぱいのガラス張りになっている空間が、ありました。その空間は、思い起こせば、怪獣映画『ガメラ3 邪神覚醒』において、ガメラが宿敵と戦った空間でした。その映画を、私は、少年時代に、ワクワクしながら観ていました。その記憶が、懐かしく蘇りました。

 当初、私は、王朝文学に興味を持って、京都駅に降り立ったはずでした。しかし、京都駅は、思いがけず、アニメと特撮の「聖地」でした。

3 京都御所

 京都駅から、紫式部の住居跡へと向かう途中には、京都御所がありました。

(1)池のある庭

 私は、京都御所へ、南側にある「間之町口」から、入りました。「間之町口」の近くには、「閑院宮邸跡」と「厳島神社」がありました。どちらの庭にも、池が設けてありました。特に、「厳島神社」の池は、ただの噴水のおまけのような小ささの池ではなく、鯉が回遊し・鳥が生息するような大きさの池でした。思えば、このような規模で「庭に池を設ける」という発想は、ワンルーム・マンションに住んでいる私が、失っていた発想でした。マンションの普及に伴って、敷地に「庭」ひいては「池」を設けるという発想が、ひとびとのなかから、無くなってきているのかもしれません。

(2)天空という借景――出雲

 「間之町口」から、京都御所の正門である「建礼門」への道中は、白い砂利の敷き詰めてある、大通りになっていました。その空には、視界を遮るものがなく、視野いっぱいの大きさの雲が、流れていました。その雲は、眺めているうちに、「いま、この世界には、この雲と、自分しか、いないのではないか」と思うような大きさでした。その雲には、白く輝く雲の世界に、私を吸い込もうとするかのような迫力がありました。そのような雲を眺めているうちに、私の脳裏には、「出雲」という言葉が、自ずと、浮かんできました。現実の世界から、神話の世界へ。そのように、ひとを誘うような、「天空という借景」が、京都御所には、設けてありました。造園として、見事でした。

4 廬山寺――紫式部の住居跡

 京都御所の西側にある「清和院御門」を出て、北へ少し歩いた先に、「廬山寺」がありました。この「廬山寺」が、紫式部の住居跡に建っている寺であるそうです。

(1)歌碑

 廬山寺のなかには、紫式部の歌碑が建っていました。

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな

 この歌は、天体写真家である林完次さんによる著書である、『宙の名前』(角川書店)にも、載っていました。彼女の遺した、有名な歌であるようです。

(2)貝絵・掛軸・絵巻

 廬山寺には、その展示室に、源氏物語をあしらった美術品が、飾ってありました。
 貝殻を金箔で覆って、絵を施した「貝絵」。そして、掛け軸。絵巻物。
 これらの美術品に関連することとして、私は、先の投稿である『宙の名前』についてのテキスト批評において、次の趣旨の問いを立てていました。

――ひとびとは、どのようにして、紫式部の作品群を、伝承していったのでしょう。
――当時は、いまのように、指先ひとつでコピー&ペーストができたり、複合機から同じ文書を何部も印刷できたりする時代では、ありませんでした。
――写本するにも、またそれを保存するにも、相当な労力が必要であったはずです。
――「紙その他によって、物語を伝承してきた、ひとびとの営為」について、私としては、あらためて学んでいってみたいです。

 その答えのひとつが、この展示室に飾ってある、美術品でした。
 ひとびとは、幾世代にもわたり、このような美術品として、紫式部の作品群を、あくまでも「楽しみながら」、作り変えつつ、伝承してきたのでしょう。

 そして、これらの美術品について、眺めているうちに、個人的に気が付いたことがありましたので、ここに書き留めておきます。
 掛け軸のなかに、「光源氏が紫の上を見初めた場面」について、描いたものがありました。その場面は、次のような場面でした。

――幼い紫の上が、飼っていた雀を逃がしてしまい、泣いている。

 この場面は、映画監督・宮崎駿さんの作品である『風立ちぬ』における、主人公である堀越二郎が、ヒロインである菜穂子を見初めた場面にも、似ています。菜穂子は、「飛んで行った雀」ならぬ「飛んで行った帽子」を捕まえようとして、騒ぎを起こしていました。そして、その騒ぎが、二郎の目を、惹いていました。
 その菜穂子の髪の色は、青の濃い、紫でした。
 宮崎駿さんの『風立ちぬ』にも、『源氏物語』が、一見、そうとは分からないかたちで、組み込んであるのかもしれません。

(3)「源氏の庭」に対する違和感――枯淡か絢爛か

 廬山寺には、「源氏の庭」という名の庭がありました。
 白灰の砂利。黒ずんだ緑の樹々。「枯淡」という形容が、ぴったりするような、静寂な雰囲気の、庭園でした。造りとしては、ゆったりと見つめていることのできる、素敵な庭園でした。
 その庭園について、日なたぼっこをしながら、ゆっくり眺めているうちに、私の胸の内には、何かしらの、違和感が芽生えてきました。
 余談。違和感について、社会学者・上野千鶴子さんは、「違和感から変化が生まれる」という趣旨のことを、その著書である『女の子はどう生きるか』(岩波ジュニア新書)に、書いていました。その記述を参考に、私も、自分の胸の内に起こる違和感を、これまで、探ってきました。そして、探っているうちに、個人的に気が付いたことが、ありました。

――たとえ、違和感を感じたとしても、そのままにしていては、違和感は、違和感のままで、終わる。
――「ちがう」から、「ほんと」へ。
――違和感から出発して、「それでは、何が真実なのか」、そのことについて、探求していってはじめて、その違和感は、変化へと、つながることになる。

 この私の気付きについて、ふまえた上で、話題を本題に戻します。
 私が「源氏の庭」に対して抱いた違和感は、私の胸の内を探ってみると、次のようなものでした。

――この庭が表現している「枯淡」の世界は、本当に、『源氏物語』に即した世界なのだろうか?
――『源氏物語』の世界は、本当は、綾錦の舞うような、「絢爛」たる世界なのではないか?

 そのような「絢爛」たる世界こそが、先程の、金箔で覆った貝に絵を付けた「貝絵」の世界に、親和するように、私には思えます。
 『源氏物語』の世界は、「枯淡」の世界なのでしょうか。「絢爛」たる世界なのでしょうか。そのことについて、個人的に、探求していってみたいです。

(4)日本の絵師――イラストレーター・アニメーター

 また余談。私には、絢爛たる貝絵の色使いが、京都駅において目にしたイラストである「酒の神・カグラ様」の色使いに、通じているようにも、思えます。
 思えば、日本の絵師は、襖や屏風に、絵を描いてきました。その絵師たちは、現代になって、襖や屏風の代わりに、テレビ画面や、スマートフォン・パソコンのディスプレイ画面に、表現のための場所を、見出したのかもしれません。もし、そうなのであれば、日本のアニメーションについて、「ジャパニメーション」と称して、日本の文化として、外国の方々にアピールしていくことも、根拠のあることなのかもしれません。

5 鴨川――清い流れ

 廬山寺から、北へ進むと、鴨川が見えてきます。
 私が、橋の上から見てみると、対岸を結ぶ、飛び石の上を、子どもたちが、元気よく、飛び渡っていました。
 いったん、橋を渡ってみて、食事処を探してみるも、見つからず。また、橋を渡って戻ろうとして、ふと、私は、思い付きました。「私も、飛び石を渡って、対岸へ戻ってみよう」。中島正敬、38歳。子どもたちと一緒に、飛び石の上を、ぴょんぴょんと飛び渡ってみました。
 飛び石の上に立ってみると、すぐ足元の、鴨川の水面を、じっくりと見つめることができました。透き通った水面でした。水底の苔が、ふわふわと、気持ちよさそうに、清流に洗われていました。鴨川は、こんなにも、澄んだ流れだったのですね。流れの先を見やると、水面には、陽の光が反射して、きらきらと輝いていました。見やっているうちに、苔のみならず、私自身もが、「心が洗われる」ような気持ちになりました。
 このように、鴨川の清流に接してみると、日本酒の多くが、透き通っている、いわゆる「清酒」であることの、その意味もが、分かるような気が、個人的に、してきました。日本酒は、「洗い清める」ために、透き通っているのかもしれません。
 そのような意味からすれば…

――旅先で、その土地の清酒を、日常から離れ、「気持ちを新たにする」ために、味わう。

 このような、日本酒の楽しみ方が、あってもいいのかもしれません。

6 下鴨神社

 鴨川の先には、下鴨神社がありました。

(1)復元した方丈――移設

 下鴨神社には、『方丈記』の著者である鴨長明が住んでいた「方丈」について、復元したものが、展示してあるそうです(隈研吾・養老孟司『日本人はどう死ぬべきか?』新潮文庫)。その「方丈」を見るために、境内に入ってみました。間の悪いことに、その「方丈」は、移設のために、展示がいったん中止になっていました。

(2)さざれ石――石に宿る命

 境内には、他に、「さざれ石」が、展示してありました。小さな石のかたまり。その別名は、「子持ち石」。これらの、子どものような石が、やがては大きくなって、巌になる。この石には、そのような信仰が、ついてまわっているそうです。
 「石に命が宿る」という信仰。その信仰は、第一印象では、不思議な信仰です。
 しかし、思えば、私も、「私が仕事で見ている世界」の執筆を通して、次のような、いったんの結論に、到達していたのでした。

――ひともまた、ものである。
――ひとは、ものの世界からやってきて、ものの世界にかえってゆく。

 この結論は、「石に命が宿る」という信仰に、親和します。
 そして、「石に命が宿る」という信仰は、中国の古典である『西遊記』における、「孫悟空が石から生まれる」という発想にも、通じてゆきます。
 私の、生命についての、いったんの結論は、独自に考えたつもりでいても、中国の古典に、既にして表れていた思想だったのでした。何やら、私自身が、「お釈迦様の手のひらの上の孫悟空」であるような気がしてきました。

(3)御手洗川

 下鴨神社のなかには、「御手洗川」が、流れていました。

――「御手洗川」で、手足を洗うことで、ひとは、その身を清める。

 そのような信仰が、「御手洗川」について、あるようです。
 そして、「川の流れによって、呪いを祓うこと」を、神道の用語で、「解除」というそうです。
 その「解除」は、法律の用語でもあります。法律の用語としては、「解除」には、次のような意味があります。

――当事者が、契約を締結した、その目的を達成することができなくなったときに、その関係を、解消すること。

 つまりは、「こじれた関係について、解消すること」。そのような意味が、法律の用語としての「解除」には、あるのです。
 そして、「関係のこじれ」は、「呪い」とも、言い換えることができるでしょう。
 神道の用語としての「解除」を、法律の用語としての「解除」に、転用したこと。そのことは、意味合いとしては、的確だったのかもしれません。
 そして、「解除」という用語は、本来、「清らかな川の流れによって、洗い流すこと」という意味をも、含んでいたようです。

 なお、御手洗川にまつわる風習として、「ひとびとが、その身を清めた上で、甘く香ばしい餡のかけてある団子を食べる」ということがあるそうです。その風習から、その団子のことを、「みたらし団子」と呼ぶようになったそうです。あっ、そういえば、みたらし団子を、食べ忘れました…笑

(4)「伝統」の「更新」

 下鴨神社について、構成する、舞殿等の建築物。これらは、21年に1度、建て替えるとのことでした。このことからは、次のことが、いえるでしょう。

――物事は、更新してこそ、長く続く。
――伝統について、固守することは、かえって、その朽廃につながる。

 このような意味合いに関連する、「清新」という言葉が、あります。
 私が、今回、京都を歩いてみて、最も印象深く感じたことが、この「清新」ということでした。
 そして、その「清新」という言葉から、私は、鴨川の水底を、思い起こします。そこには、こびりついた苔もが、流れのなかに、清浄なものとして、残っていました。

――漂白して、「真っ白にする」のではなく。
――こびりついたものさえも含めて、清いものとする。

 そのような、「清め方」が、あっていいのでしょう。

7 方丈の石碑――「また来なさい」

(1)清浄という理想/濁悪という現実

 清浄という理想がある一方、濁悪という現実もあります。
 下鴨神社についてみても、たとえば、その禰宜として就職するべく、後鳥羽院から鴨長明に声がかかったところ、長明を出し抜いて、別人がその職に就いたのでした。そして、その禰宜になった人物は、禰宜になったことがもとで、後に、猟官運動の競争相手から、暗殺されたのでした(堀田善衛『方丈記私記』ちくま文庫)。
 長明に声をかけた、その後鳥羽院も、承久の乱を起こし、幾多の死者を出した挙句に、鎌倉の武士たちに、敗れたのでした。
 長明は、『方丈記』において、そのような世を、「濁悪の世」と呼んでいます。

(2)極美なもの――「濁悪な世界」からの「清浄な世界」への願望

 現実が濁悪だからこそ、ひとは「清いもの」ひいては「美しいもの」を、求めるのかもしれません。
 このことに関連する、作家・堀田善衛さんの言葉があります。

――文明が滅びるとき、極美なものが現れる。

 現実が濁悪を極めたとき、極美な芸術が、現れる。このことの例として、堀田さんは、歌人・藤原定家による『新古今和歌集』の成立を、挙げています。
 『新古今和歌集』について、堀田さんは、「現実とは切れたものの美しさ」とも、評しています。
 その藤原定家と、鴨長明とは、同時代人でした。
 濁悪の世にあって、定家は、『新古今和歌集』を、編纂しました。その一方、長明は、世を捨てて、方丈に住まうようになりました。二人の、身の処し方は、異なっています。異なっているにしても、彼らの、それぞれの行動の根拠としては、同じ「濁悪の世」という、自分たちの生きる時代についての認識があったようです。
 そして、定家の『新古今和歌集』に見る、「切れたものの美しさ」を、私は、「酒の神・カグラ様」をはじめとする、現代のイラストレーションにも、感じます。現代のイラストレーションも、現実が描くには濁悪すぎるために、抽象的な美しさを、探求するようになっているのかもしれません。

(3)鴨長明の足あと

 長明は、定家とは違って、「清浄な世界」を探求することなく、世を捨てました。彼は、いわば「無」を探求しました。その長明の足跡を、私は、たどってみることにしました。
 京都市の郊外に、長明が方丈を構えていた場所があり、その場所に、石碑が建っているそうです。その石碑を、私は、訪ねてみることにしました。
 京都のローカル線、その終着駅の、ひとつ前の駅。その駅から歩いて20分以上かかる、山のふもと。インターネット上の地図で調べていった、その場所には、石碑はありませんでした。その代わりに、「方丈の跡地まで、あと500メートル」という、札が立っていました。
 その時刻には、既に、月が天に高く、夕闇が、辺りを包んでいました。山のふもとから、町を見返すと、その町の向こうの山嶺が、わずかに夕陽を帯びていました。
 立て札が指し示す先には、街灯のない、木立に覆われた山道が、ぽっかりと、黒い口を開けていました。

――入っていった先で、道に迷ったら?
――獣がいたら?

 そのような迷いを、身体が感じる、暗さでした。
 しかし、500メートルは、さほどの距離ではないはずです。これくらいのことで、怖気づいていたのでは、長明の後は、追えないでしょう。
 私は、そのまま、山道へ入っていってみました。
 鬱蒼とした木立のすきまから、月の光が、薄く、降ってきていました。その月の光で、枯れ葉が白く浮き上がり、道を成していました。その枯れ葉でできた道をたよりに、私は進んでゆきました。足を滑らせれば、下へ滑り落ちそうな、急な斜面の上に、細い道が続いていました。ひと気のない、孤独をひしひしと感じる、山道でした。
 しばらく、進んでみると、ひと抱え以上ある、大きな石が、置いてありました。その石には、銀色のシートが、かぶせてありました。シートをめくってみても、何かが書いてあるのか・ないのかさえ、夜目では、分かりませんでした。この状況では、私が方丈の跡地にたどり着いたとしても、そこが跡地であること自体、分からないでしょう。周囲が、完全に暗くならないうちに、私は、引き返すことにしました。引き返しているうちに、私の足に、草や木が、突っかかるようになりました。引き返すべき道を、間違えたようです。私は、目をこらして、枯れ葉が白く浮かび上がる道を見出して、山道の入口まで、戻ることができました。
 長明が、方丈を構えた、その場所は、「夜間、何かがあっても、誰も助けに来ることができない場所」でした。長明は、本当に、戻ってこないつもりで、世を捨てて、ここまで来たのでしょう。長明の、その決意の、その真摯さを、私も、かいま見るように感じました。

――復元した方丈を、見ることができなかったこと。
――方丈の跡地も、見ることができなかったこと。

 これらのことから、私は、長明から、次のように言われた気がしました。

――中島さん、あなたは、最近の記事において、「最後には一人で生きてゆく」と、書いていますね。
――それならば、そのための態勢が、整ってから、私にまた会いに来なさい。

 このように、長明が、私を現世に送り返してくれたのであれば、私は、この現世で、まだしばらく、ジタバタしながら、生きていってみることにします。
 生きてゆくにあたり、堀田さんもそのエッセイにおいて引用している、中国の作家である魯迅の、次の言葉を引いておきます(「魯迅の墓その他」『堀田善衛集』影書房)。

――絶望は虚妄だ、希望がそうであるように。

 この年末年始の間、石川県における大地震、羽田空港における機体炎上に加えて、私には、親しくしていた方の訃報もが、届きました。
 しかし、「ひとの主観」という、毒にも薬にもなるものを、取り払って見てみれば、ひとは、希望に燃えているにせよ・絶望に落ち込んでいるにせよ、死にたくない限りは、生きてゆかねばならないものでしょう。

 年末年始にふさわしい、気持ちが新たになるような、よきお出かけでした。
 そして、また次に京都へ来るための、新しい楽しみができました。

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