【成年後見】公益社団法人成年後見センター・リーガルサポート『意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン』の策定・公表と専門職後見人に期待される役割 ~強制的な主体性~

 成年後見人の候補者としての、資格についての、更新研修。
 レポートの提出が、単位を取得するにあたっての、条件。
 この研修の内容は、私にとって、今後、実務において、参考になる内容でしたので、ここに、私のレポートを、記事として、投稿しておきます。

1 内容要約

 成年後見制度の利用の促進に関する法律における、その基本理念として、「意思決定支援」がある。同法に基づく成年後見制度利用促進基本計画においても「意思決定支援」が重要なポイントになっている。当該計画では、意思決定支援指針を策定した上で、その内容に関して、後見人等へ向けた研修を実施し、更に後見人等以外の関係者へも研修を実施することになっている。

 意思決定支援においては、そのプロセスが重要である。まずは、意思決定支援を試みる(1)。そして、それが困難であったり(2)、意思決定があったとしても重大な不利益が生じる可能性が生じたりした(3)場合には、それらの場合への、別途の対応が必要になる。

 (1)意思決定支援においては、日常生活の段階から、「本人が、意思を決定しやすい環境」を、整備しておくことが必要である。本人が、自尊心を維持して・達成感を保持するように、支援者側は、普段から、本人の意思決定を尊重する、基本的姿勢を示しておくべきである。

 意思決定支援が必要となる場面は、重要な法律行為及び当該行為に附随する事実行為についての意思決定が必要となるときである。重要な法律行為等とは、主に、「本人の居所が変わる行為」「重要な財産を処分する行為」「親族へ利益を提供する行為」である。概括して「本人へ及ぼす影響が大きい行為」と捉えるべきである。影響の大きさについては、客観的な観点からのみならず、主観的な観点からも、考慮するべきである。

 意思決定が必要となる場面がめぐってきたとき、決定支援のために、まずは、チームを編成する。そのチームで、本人を交えてのミーティングを行う。本人から意思の表明があったならば、その意思を、後見人が実現する。このプロセスにおいて、後見人は、主催者となるべき福祉関係者等にチームの編成を促し、チームが上手く機能しない場合には中核機関からの援助を要請し、本人が主体的に意思を表示できるよう関与してゆくべきである。

 (2)本人の意思決定が困難であった場合には、本人の意思決定能力について評価する。理解、記憶保持、比較検討、表現。そして、その時点で、その行為に関し、本人が意思を決定することが必要であって、それでも本人が意思を決定できないようであれば、後見人が代行決定せざるを得ないことになる。その場合であっても、本人の意思が推定できるのであれば、推定意思による代行決定をする。意思推定すら困難であるならば、本人にとって最善の利益となる代行決定をする。

 (3)本人の意思決定があったとしても、重大な不利益が生じる可能性が生じた場合には、その不利益と可能性の程度について検討する。他の選択肢と比較して明らかに不利益であるか? その不利益は回復が困難か? その不利益が発生することは確実なのか? 第三者から見れば不合理な意思決定であっても、本人にとって、そこまで重大な不利益は生じないのであれば、その意思を後見人は実現するべきである。重大な不利益が生じる可能性が確実にあるのであれば、後見人は、その意思を実現するべきではない。または、本人にとって最善の利益となる代行決定をするべきである。

2 コメント

 意思決定支援にあたっての、具体的なプロセスの紹介があり、参考になった。
 そもそも、①意思とはどのようなものなのかについての定義がないまま、②その意思を全ての人間が本当に有しているのかの検証がないまま、制度ができて、実施が進んで行っていることが、個人的に気になった。
 また、意思表示には、契約のように、相手がいることもままあるので、相手と交渉する等の機会を、上記のプロセスのなかで、どのように設けていくのか、実務上、問題が生じてくるかもしれない。

3 ブログへの投稿にあたっての補足

 法律用語辞典によると、「意思」とは「欲求」のこと(法令用語研究会『法律用語辞典』〔第5版〕有斐閣)。

――ひとには、誰しも、「こうしたい」という「欲求」があるもの。

 そのように、法の世界は、想定しているようです。

 若年のうち、壮年のうちは、それでもいいかもしれません。
 現実の世界は、そもそもからの「生きたい」という欲求がなければ、生きてゆくことができない世界です。
 その現実の世界に応じて、法の世界も、「ひとには、『生きたい』から生ずる、様々な欲求があるもの」と、想定しているのかもしれません。
 むしろ、法の世界は、「ひとは、生きようとしなければならない」と、前提しているのかもしれません。
 このことに関連して、作家・大江健三郎さんが、次のように書いています。
「この現実生活を生きるということは、結局、正統的に生きるべく強制されることのようです。欺瞞の罠におちこむつもりでいても、いつのまにか、それを拒むほかなくなってしまう」(『個人的な体験』新潮文庫)

 ただ、私が実際に拝見してきた「老年の道のり」は、次のような道のりでもありました。

――そのひとが、「なにもしなくなってゆくこと」・「生きることについての欲求を持たなくなってゆくこと」を、本人自身が・周囲のひとびとが、受け入れてゆく道のり。

 「意思決定支援」は、腰が痛くて、歩くことが難しい、おじいさんおばあさんに、「がんばって歩きなさい」と、強いることに似た結果をもたらすことも、ありうるのでは。そのように、私は懸念しています。
 「老年の道のり」には、「若年の道のり」・「壮年の道のり」とは、また違う、歩き方が、あってもいいのかもしれません。

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