【読書】養老孟司『手入れという思想』新潮文庫 ~都市論・身体論~

養老孟司『手入れという思想』新潮文庫 よ-24-7 2013.11.1
https://www.shinchosha.co.jp/book/130837/

 先日の記事、立川昭二さんの『病気の社会史』岩波現代文庫についての紹介において、私は、「手入れ」という言葉を、使いました。
 私たちが「都市」という「中央」において従事していることは、「生産」ではなく「管理」であって、「管理」は、「手入れ」とも、言い換えることができる。そういう言葉の使い方を、私は、しました。
 その「手入れ」という言葉を使うとき、私の念頭にあった本が、この、養老孟司さんの『手入れという思想』新潮文庫でした。そこで、この本を、あらためて読んでみました。

 人間の身体という、「自然」を見つめてきた、養老さん。「自然」という視点から、養老さんは、現代社会を、批判します。
 こうした養老さんの議論の仕方は、フランス革命について、「哲学者による形而上の革命である」との批判を著した、エドマンド・バークに、似ています。「手堅い保守」といった印象を、個人的には、受けました。

第1 内容要約

1 都市論

(1)現代における「知」

 養老孟司さんは、解剖学者。長年、人体の解剖に、取り組んできた。その養老さんが、晩年になってから、解剖ではなく、教養について、学生に教えるようになった。
 そのきっかけは、オウム真理教。オウム真理教について、信じている学生が、養老さんに、こう持ちかけてきた。
「尊師が水中で1時間を過ごしますので、その証人になって下さい」
 医学の知識からすると、人間が水中で1時間も過ごしたら、酸素の供給が止まり、身体に深刻な影響が及ぶ。その知識を、学生も、学んでいるはず。その学生が、その医学から得た知識と、オウム真理教から得た知識とを、アタマのなかに、両立させている。
 両立し得ない知識を、アタマのなかで、両立させること。このことは、その人間にとって、知識が「ノウハウ」であることを意味する。そうした人間は、どちらか、自分の都合のいいときに、自分の都合のいい知識を、使うのである。
 しかし、本来、知識とは、「知ると、自分が変わるもの」だったはず。本当に医学知識があるなら、ひとを、水中に1時間、放置することなど、しないはず。知るということは、自分の行動が、変わることなのである。
 だからこそ、農村など、家業に専念することが必要な社会では、人間に学問を、させないできた。ひとつのことに専念するためには、学問などして、そのたびに自分が変わることは、邪魔でさえあるのである。

(2)情報――固定したもの

 情報とは、固定したものである。たとえば、今日のニュースを、100年後に見ても、その内容は、変わらない。
 これに対し、人間は、日々、変わってゆく。『方丈記』にいう、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。

(3)都市

 その人間が、固定した情報で組み上げた空間が、都市。そこは、「ああすれば、こうなる」の世界。たとえば、森でヘビに噛まれても、「仕方がない」。しかし、都市でヘビに噛まれたら、「誰が放したんだ」。都市において起こることは、人為によることばかりであって、人為である以上は、その結果について、誰かが責任をとるべき、ということになるのである。
 そして、人間は、人為では、どうにもならないことを、都市の外へと、排除した。たとえば、ブッダは、その伝説に置いて、生まれてから、四つの門を、くぐったことになっている。四つの門、それぞれから、外へ出てみると、そこには、それぞれ、生・老・病・死が、あった。
  生まれてくること
  老いること
  病むこと
  死ぬこと
 これら全てが、都市においては、病院で起こることになっている。

(4)都市と田舎の同居――手入れ

 養老さんにとっての理想は、「都市と田舎とが、同居すること」。
 都市のように、人為で固め過ぎても、暮らしにくい。かといって、自然を野放しにしていても、そこで、人間が暮らすことができるようには、ならない。
 そこで大事になってくる、考え方が、「手入れ」。「手入れ」は、田舎の発想。「田舎」は、「里山」と言ってもいい。自然を手入れして、自然と、折り合いをつける。自然に対して、根性で、辛抱して、努力しているうちに、どこかで、収まりがつく。そして、暮らしやすい、整った景色が生まれる。
 たとえば、女性の化粧についても、このことがいえる。そのままでいるわけにも、いかない。かといって、美容整形するわけにも、いかない。化粧して、手入れして、女性は、自分の顔に、収まりをつけているのである。

 ただ、都市のインテリに、農村のやり方を教えようとしても、うまくいかない。たとえば、中国の起こした「文化大革命」は、その失敗事例である。

(5)都市と貨幣

 貨幣は、都市という、商人の形成した社会でこそ、通用する。
 たとえば、ブータンのように、自給自足を基本とする、主たる取引方法が物々交換である社会においては、貨幣は、祭事のときくらいしか、使わない。

2 身体論

(1)神経系・遺伝子系

 人間の身体には、神経系と、遺伝子系がある。
 神経系が死んでも、遺伝子系が生き続けることがある。この、遺伝子系が生き続けている状態のことを、「脳死」という。
 この「脳死」は、死んだことにして、よいのか。そのことが、脳死をめぐる問題の発端になった。この問題は、「この社会において、その人間が死んだかどうか、ということについて、どのように判断するのか」そして「その判断基準について、誰が決めるのか」という問題に、帰着する。

(2)脳と心

 脳は「つくり」。心は「はたらき」。
 意識は、無意識の、一部。部分から、全体について、把握することは、できない。
 意識がつくる、理論というものは、組み立てたあと、その理論で拾い上げることのできない事象が、たまってくるものである。その拾い上げることのできない事象を、拾い上げて、ひとは、理論を、再度、組み立ててゆく。

(3)目と耳

 目で感じ取る表現が、絵。
 耳で感じ取る表現が、歌。
 目でも耳でも感じ取ることのできる表現が、文字。文字は、目でも耳でも感じ取ることができるよう、徹底的に抽象的なものになった。

 このように、相手との共通了解が可能な「シンボル」を扱うことが、人間の特徴である。
 貨幣もまた、この「シンボル」の一種である。

(4)言葉による意味の切断

 言葉は、意味を切断する。たとえば、ある色と、別な色との境界は、曖昧なのに、言葉は、それらの色を、切り分ける。「黒」と「白」との境界は?
 言葉によって、法律はできあがっているので、法律も、世界を切断する。本来は、一例一例が違うはずの案件を、法律は、一律に扱う。

(5)論理と行動

 人間は、論理だけでは、行動できない。このことは、コンピューターが、いくら論理に基づく計算が得意でも、自分からは行動ができないことと、同じことである。
 主観というバイアスがあって、はじめて、人間は、行動することができる。

 学生に、いくら入力しても、何も出てこないことが、ままある。それは、入力に対する、学生の有している、主観というバイアス、その係数が、ゼロになっているからである。この「係数がゼロになっていること」を、「バカの壁」という。

3 保守思想

 過去は、否定するべきものではない。
 たとえば、働き詰めに働いてきて、成功した実業家が、「自分は本が読めなかったから」と、図書館を設立することは、自分の働いてきた過去を、否定することである。
 自分が育ってきたように、子どもを育ててこなかったことが、戦後の教育が抱えてきた問題の、その一因となっているのではないか。
 過去があって、現在があるのである。そうした意味では、教育勅語も、その影響を、現在に至るまで、及ぼしているだろう。なお、教育勅語には、宗教と、哲学が、ない。

 いままでは、官庁、企業といった、古い共同体を残しておいて、それらの共同体に、ひとびとが忠誠を誓う方法で、社会を維持してきた。しかし、その方法では、もう、上手く行かない時代が、やってきている。

4 父の死

 養老さんは、幼い頃、父を亡くした。
 幼い養老さんは、夜中に、いきなり起こされ、父の枕元へ。「『さよなら』を言いなさい」。なぜか、養老さんは、「さよなら」を、言えなかった。そうした様子の養老さんに、お父さんは、微笑んで、その直後、喀血して、亡くなった。
 それから、養老さんは、ひとに挨拶をしない子どもになった。そういう養老さんを、母親が、心配して、知能検査に、連れて行った。
 数十年後、養老さんは、自分が「ひとに挨拶をしない子ども」だったことについて、「父親に言えなかった挨拶を、ひとにして、なるのものか」との思いを、当時、胸の奥に抱いていたことに、気が付いた。気が付いたとき、養老さんは、思わず、涙した。

第2 中島コメント

1 手入れ

――自然を手入れして、自然と、折り合いをつける。自然に対して、根性で、辛抱して、努力しているうちに、どこかで、収まりがつく。
 「根性で、辛抱して、努力しているうちに、どこかで、収まりがつく」。この考え方は、「耐えていれば、いずれ、神風が吹いて、日本は戦争に勝つ」という考え方と、似ています。そして、日本は、結局、空襲で焼け野原になり、原子爆弾が2発も落ち、戦争に敗けました。
(1)基本的な考え方(将来の展望も含む)
(2)いったん決めた方針について覚えておくこと
 この二つが、手入れにおいても、必要になるのではないでしょうか。この二つが必要であることは、私自身、仲間と仕事をしているときに、感じています。ある問題について、AとB、両方の対応がありうるときに、いったんAを選んだあと、つぎにBを選ぶと、仲間との意思の疎通に、混乱を来します。
 このことから、連想。法学における、「信義誠実の原則」の、いち内容として、「禁反言の原則」というものがあります。「いったん言ったことと、違うことをすると、信頼に関わる」。そのことを、この原則は、示しているでしょう。

 なお、女性の化粧については、そもそも、「なぜ、女性は化粧をして、男性は化粧をしないことになっているのか」そして「その社会的な性差別の原因は、何なのか」ということが、個人的に、気になります。

2 生老病死

 養老さんの指摘のなかで、個人的に、特に興味深いことは、「生老病死」についての指摘です。「生老病死を、都市は、その外に追い出した」。「生老病死は、いま、病院で、起こることになっている」。こうした指摘については、私自身、成年後見業務において、老・病・死が、病院で起こっていることを、実体験していますので、得心がゆきます。
 より厳密にいえば、「老」「死」は、いまは、介護施設においても、起こるようになっています。
 介護施設の、社会における登場。その介護施設の根拠となる、介護保険制度の登場。そして、介護保険制度の登場と同時に、成年後見制度も、登場しました。介護保険制度と、成年後見制度は、「車の両輪」ということに、なっています。
 介護保険制度と、成年後見制度の登場は、社会が、それまで排除していた「老」「死」を、そのなかに包摂しはじめたことを、意味しているでしょう。ただ、その包摂は、まだ、制度上の包摂であって、介護及び後見の必要な高齢者の方々を、介護施設または病院へと隔離してゆく、実際上の排除は、続いているように、個人的には、見えています。
 「生老病死」についての、「社会的排除から、社会的包接へ」との動きは、私にとりましても、学生時代から、最も取り組みたい、社会問題であり続けています。

 この、「生老病死」について、「社会的包接」に取り組みたいとする、私自身の心の動きに関して、私は、いままで、次のように説明してきました。
・ 社会的な意義のある仕事がしたい
・ 学問で身を立てたい
・ 個人として生きたい
 これらの根拠については、私は、学生時代に、司馬遼太郎さんの著作から、示唆を得ました。『土地と日本人』中公文庫、『花神』新潮文庫、「訴えるべき相手がないまま」『司馬遼太郎全講演2』朝日文庫。
 これらに加えて、いま、私が感じていることは、「私自身、この社会で生きていくことに、違和感を、拭い去りがたく、抱き続けている」ということです。このことには、岩宮恵子さんの『生きにくい子どもたち』岩波現代文庫、鬼束ちひろさんの『月光』、ジェームズ・キャメロン氏の『ターミネーター2』に関して、記事を投稿しているうちに、個人的に、気が付きました。
 私自身の有している、この社会で生きていくことへの違和感は、社会的排除を受けている、「生老病死」にあるひとびとへの共感に、つながっているようです。

3 一例一例

「本来は、一例一例が違うことについて、法律は、一律に扱う」
 養老さんによる、この指摘は、個人的に、印象的でした。
 「生老病死」も、一例一例が、違うもの。「生老病死」にあるひとびとに、寄り添うときには、この考えが、大事になってくるでしょう。
 このことに関連して、河合隼雄さんの言葉を、ここに引用しておきます(『日本文化のゆくえ』岩波現代文庫)。
「総じて、日本における教育は、子どもとの関係を切断して、子どもを操作する対象として扱っている。これからの教育においては、一人一人の子どもが、どのようにして生きていこうとしているのか、その物語に寄り添っていくことが必要になるだろう」

 一方で、法律が、個々の案件について、細部にはこだわらずに、一律に扱うことには、利点もあります。その利点とは、「どの案件についても、平等に扱うことができること」です。
 ただ、「細部を無視した平等」は、どこまで、当事者を納得させることができるでしょう。そうした問題があるからこそ、裁判所は事実認定に、学者は事案把握に、熱心に取り組んでいるのでしょう。

 法律による、一律の扱い。このことから、私は、『ものづくりの科学史』講談社学術文庫における、次の記述を、思い出しました。
「一定の型に嵌めた、大量生産の方が、手作りよりも、正確に早く生産できる」
 法律による、一律の扱いは、社会において、日々、大量に発生する交渉・紛争について、正確に早く処理してゆく、人間の工夫なのかもしれません。

 なお、実務家の個人的な感想としては、一例一例に丁寧に向き合うためには、かえって、型(法)について熟知していることも、必要なのではと、思います。
 このことと、同様のことを、工学者・畑村洋太郎さんは「真のベテラン」という言葉で、経営学者・中原淳さんは「適応的熟達者」という言葉で、表現しています。

 余談。「一定の型に嵌めた、大量生産」という言葉から、個人的に、「ターミネーター」のことを、思い出しました。「ターミネーター」というキャラクターは、「現代社会が、人間を一定の型に嵌めて、大量生産していること」を、象徴しているのかもしれません。

4 連続と断絶

 実業家が、「自分は本が読めなかったから」といって、図書館を設立することは、彼自身の人生を否定することには、ならないでしょう。
 たとえば、小倉昌男は、結核にかかって、その若い年月を、無為に過ごしたそうです。だからといって、小倉さんのような経験をしたひとは、「ひとは結核にかかった方がいい」「結核は根絶しないほうがいい」とは、言わないでしょう。
 実業家についての話に戻りますと、次の世代は、その実業家の人生経験を、貴重な教訓として、一所懸命に働いて、また、一所懸命に読書すればよいのではないでしょうか。

 また、教育勅語など、戦前教育が、ひいては戦前体制が、現在に至るまで、その影響を、社会に及ぼしていることについては、たとえば、山之内靖さんが『総力戦体制』ちくま学芸文庫において、そのことに関連した指摘を、述べています。
 「戦前と戦後」の「断絶と連続」。戦前と戦後とは、部分的に断絶していて、部分的に連続している。この「連続」に、養老さんは、注目しているのでしょう。「断絶」ばかり強調しても、状況を見誤りますし、「連続」ばかり強調しても、同じく状況を見誤るのでしょう。
 私たちにとって大切なことは、断絶と、連続とを、ともに認識した上で、さらに、その断絶について、その連続について、どのように考え、どのようにしてゆくのか、ということでしょう。

5 父の死

 この本には、養老さんが、幼い頃に、父親を亡くしたことが、思いがけず、書いてありました。
 養老さんが、幼い頃に、お父さんを亡くした経験は、開高健さんが、少年であった頃に、お父さんを亡くした経験と、重なります。
 そして、二人とも、その悲しみを自分のものとするために、数十年の歳月を、要していました。
 「悲哀の仕事」(小此木啓吾『対象喪失』中公新書)には、やはり、相当な時間が、必要となるようです。

6 まとめ

 言いたい放題な意見のなかに、鋭い指摘の混じっている、面白い一冊でした。

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