【見聞】江戸東京たてもの園 特別展「江戸東京博物館コレクション―東京の歩んだ道」 ~江戸・東京の通史・概観~

江戸東京たてもの園 特別展「江戸東京博物館コレクション―東京の歩んだ道」
https://www.tatemonoen.jp/special/2022/220625.php

 森鴎外記念館のコレクション展「鴎外の東京の住まい」から、私が立てた問い。

――そもそも、東京は、どのような都市なのでしょう。

 そのことについて、調べる手がかりを得るために、この特別展へ、行ってみました。
 江戸東京たてもの園は、江戸東京博物館の、分館。
 本館である、江戸東京博物館は、いま、改修のため、休館。
 その博物館の展示していた資料を、江戸東京たてもの園が、小さくまとめて、展示。特別展「江戸東京博物館コレクション―東京の歩んだ道」。ひと部屋のみの、つつましい展示でした。
 古代から、現代まで。江戸・東京の通史・概観。

第1 小金井さんぽ

 江戸東京たてもの園は、東小金井駅から、徒歩で、15分から20分。次は、駅から、バスで、来よう。

 途中、小さな橋を渡りました。橋の下には、水が流れていました。「玉川上水」。水量が、少ない。流れの両側には、草木が茂り放題。玉川上水って、こんなに侘びしい水道だったのですね。都市の開発が進むなかで、機械設備による水道が整っていって、その分、玉川上水の水量は、減ってきたのかもしれません。

 園は、小金井公園のなかに、造園。
 小金井公園は、都心にはない、広さ。ジョギングが、のびのび、できそう。
 広場では、凧揚げ、キャンプ。幼い男の子が、自転車に乗るために、練習。転んでも、ニコニコしている。がんばれー(^o^)

 園の入り口には、マスコットキャラクターの付いた、看板が。そのキャラクターは、映画監督・宮崎駿さんが、描いたものでした。
 宮崎さんをはじめ、スタジオジブリが、園の運営に、協力したことがあったようです。そういえば、スタジオジブリの本拠地は、小金井でした。
 はじめ、森鴎外から示唆を得て、そして、宮崎駿さんに、再び出会う。不思議なご縁です。

 造園にあたっての、主要人物は、建築史学者・藤森照信さん。自称「建築探偵」。藤森さんは、建物が好きな仲間と、東京都内の古き良き建物を、訪ね歩いていたそうです。その訪ね歩きのなかで、見当をつけていた建物が、取り壊しとなる際に、「待った」。この園に、移築。東京の古き良き建物が、集まった、園。それが、「江戸東京たてもの園」とのことです。

 園についてのガイドブックである、『新江戸東京たてもの園物語』には、宮崎さんと、藤森さんとの、対談が、掲載。
 宮崎さんの言葉。

――家に火がないと、家は死ぬ。

 私の自宅のコンロは、IHです。しかも、1口。火事を予防するためでしょう。
 たしかに、私の自宅は、「火が消えたよう」です。
 うーん、宮崎さんの言葉から、私の生活について、あらためて、考えさせられます。

第2 江戸東京博物館コレクション―東京の歩んだ道

1 前史

 縄文時代。東京の地層からも、土器が出土している。
 弥生時代。大森からは、貝塚が出土している。
 田園調布には、古墳もある。
 奈良時代。江戸東京地方は、「武蔵国」だった。東は、川崎にまで及ぶような、広大な国だった。
 戦国時代。八王子が、交通の要衝だった。八王子城を、北条氏が、擁していた。

2 江戸

 『続・古今和歌集』には、次のような趣旨の、歌がある。

――武蔵は、草むらから日がのぼり、草むらへ日が沈む。

 山がない、平野。それが、原初の、江戸東京の風景だった。

 その後、徳川家康が、江戸へ入植。
 家康は、江戸の中心を、「日本橋」と、定めた。

 徳川家光が、「武家諸法度」を、確立。「武家諸法度」は、「参勤交代」を、定めた。「参勤交代」によって、地方の武士たちが、江戸へ移住してくるようになった。
 江戸という都市を、形成した、主役。それは、武士たちだった。

 流入してくる人口。
 人口に対して、水が不足してきた。江戸は、水が豊かだといっても、海に近い。多くの水は、塩を含んでいる。塩を含んだ水は、飲むことに、適さない。飲用水の不足が、問題になった。
 ひとびとは、上水を、開通。玉川上水・神田上水。玉川上水は、江戸の南側を、潤した。神田上水は、北側を、潤した。これらの上水は、江戸の各地を潤しながら、最後には、江戸城の堀へと、至るようになっていた。
 玉川上水のほとりに立っていた札が、そのまま、残っている。「この水、汚すべからず」。

 隆盛する経済。
 当初、市場は、折々に開催するものだった。そのうちに、常設の店舗を置く、商人が、増えてきた。つまりは、「市場の常設」という現象が、起こった。
 常設するようになった市場のために、幕府は、貨幣を、制定。貨幣によって、「売買」という取引が成立するようになった。その「代金」の支払い時期に応じて、「利息」も、発生するようになった。

 教育の普及。
 幕府の昌平坂学問所。各藩の藩校。これらの学校では、儒学・国学を、教えた。
 庶民のためには、寺子屋が、普及した。寺子屋では、読み書き、算数、そして、「商売のための、帳簿の付け方」等を、教えた。

 物資の生産。
 当初、江戸の住民は、上方からの「下りもの」を、購入していた。
 そのうちに、ひとびとは、江戸の近郊において、江戸の住民のための物資を、生産するようになった。青物、生鮮食料、薪炭、雑穀。織物も、醸造品も。特に、木綿や醬油の、質と量は、「下りもの」を、凌いだ。
 それらの物資を、ひとびとは、利根川・江戸川を伝って、江戸へと、運んだ。水運。

 江戸の水運にとって、大動脈は、隅田川。
 そして、江戸の歓楽地は、浅草。
 隅田川には、両国橋がかかり、その先には、回向院が建った。
 聖と俗との、交わり。それが、浅草の繁栄する、基となった。

3 東京(戦前)

 明治維新。

 江戸城は、無血で開城。
 彰義隊による抵抗はあったものの、10時間で、鎮圧。

 その後に起こったことは、「人口の減少」だった。
 もともと、参勤交代のために、武士たちは、江戸に集まっていた。彼らには、東京に留まる理由が、なかった。武士たちは、彼らの地元へ、帰っていった。
 寂びれる街。横行する野盗。
 明治政府は、当初、住民たちに、「空いた土地は、畑にしなさい」と、推奨していた。
 その後、東京が、江戸のような賑わいを取り戻すには、10年ちかい年月が、かかった。
 東京の人口が、再び、増加に転じた、その原因。その原因については、定説はない。おそらく、次のような原因があっただろう。西洋の技術の導入。貿易についての本拠である、横浜との、交通の利便。インフラの整備の進展。

 東京においては、インフラの整備が、進んでいった。鉄道、郵便、電信。

 教育については、当初、明治政府は、中央が主導しての、教育を目指した。その教育の、主な目的は、「洋学の普及」だった。
 しかし、「洋学の普及」は、それぞれの地方の、実需には、そぐわなかった。政府は、教育の、方針を、転換。その地方々々での、実需に合わせた教育を、施すことを、推進した。
 その後、政府の、教育の方針は、国家の統制する、国家主義教育に、なっていった。

 住民たちにとっての歓楽地は、江戸が東京に変わっても、浅草であり続けた。浅草に、日本で初めて、映画館ができたときには、街路が、人ごみで、ごったがえした。

 関東大震災。マグニチュードは、「7.9」。
 震災により、当時の東京の人口である220万人のうち、150万人が、家を失った。その結果、80万人が、東京を離れることになった。
 震災からの復興。その方針は、「復元ではなく、近代都市へ」。機能においても・景観においても、東京は、近代都市を、目指すことになった。

 東京大空襲。
 太平洋戦争の開戦時には、東京の人口は、700万人だった。
 大空襲によって、300万人が、罹災。死者は、11万人。
 敗戦時には、東京の人口は、240万人にまで、減少していた。
 敗戦して間もない頃の写真が、残っている。有楽町・新橋のあたり。焼け野原に、ガレキが散乱している。その荒野で、ひとりの女性が、クワをふるって、畑を作ろうとしている。

4 東京(戦後)

 東京に、アメリカの生活様式が、流入してきた。「生活革命」。

――ここまで劇的に、東京の住民の生活が変わることは、かつてなかった。

 いわゆる「三種の神器」が、普及。洗濯機、冷蔵庫、テレビ。
 住まいに関しては、「マンションにおいての、イスでの生活」になった。
 ラジオの普及。「カムカム英語」の流行。
 テレビの登場。その価格は、庶民の手が届くものではなかった。最初の、契約の件数は、ごくわずかだった。

 「欲しがりません勝つまでは」が、「消費は美徳」になっていった。

 朝鮮戦争による「特需」がきっかけとなって、経済は、成長の軌道へ。
 1956年の経済白書には、「もはや戦後ではない」との言葉が載った。

 東京における、高速道路の、建設。
 道路を支える、高架の下には、店舗が入るようにしてあった。「空間の活用」。
 高速道路が、日本橋の上にも、通った。
 道路とともに、自動車の数も、増えてゆく。交通渋滞が、東京の名物になっていった。

 増え続ける人口。
 東京は、「機能分散」のため、「衛星都市の育成」を、目指すことに。
 新宿には、副都心が、できていった。
 多摩には、ニュータウンが、できた。

 霞が関には、日本において初めての高層ビルである「霞が関ビルディング」ができた。
 高層ビルは、その後、新宿をはじめ、東京の各地に、林立していった。

 展示は、ここで終わり。

第3 中島コメント

1 総評

 古代から現代まで、江戸・東京という土地に生きたひとびとの足あとを、一本の糸で結ぶように学ぶことのできる、よき特別展でした。
 特に、私にとっては、明治維新と太平洋戦争とが、アタマのなかで、うまくつながっていませんでした。それぞれが、別な社会において起こった出来事のようでした。それらについて、一連のものとして、つないで理解することができました。
 これからの学びのための、軸ができたような気がします。

2 水道

 この特別展においては、玉川上水の流れについて、図での説明がありました。
 江戸という都市の、その直径よりも、長い水路が、江戸から西北西へ、長く延びていました。この距離について、重機のない時代に、開通する工事は、大変な土木工事だったでしょう。先人たちの苦労を、個人的に、偲びました。

 ちなみに、玉川上水のほとりに立ててあった札(「この水、汚すべからず」)について、個人的に思い出したことがありましたので、調べてみました。
 作家・太宰治が、玉川上水で、入水自殺していました。こらっ。

3 経済

 定住する人口があってはじめて、市場が常設で成立する。
 そして、市場が常設で成立してはじめて、貨幣の制度が成立する。

  人口 ⇒ 市場 ⇒ 貨幣

 経済の基盤というものは、このような階層で、できあがっているのですね。
 江戸時代に、先人たちが、自分たちの生活を形作ってきた、その経緯。その経緯から、「経済の基盤」が、どのようなものなのか、私にも、分かってくるような気がします。
 人口、市場、貨幣。経済の基盤が、このような階層になっているとすれば、「異次元の金融緩和」は、経済の問題を、貨幣の階層において、解決しようとした政策だったと、捉えることができるでしょう。その更に奥深くには、市場の問題、ひいては、人口の問題が、潜んでいるのです。
 特に、人口の問題、現代日本でいえば「人口の減少」の問題は、いまからどうこうして解決することのできる問題では、なさそうです。人口が減少してゆくこと、市場が縮小してゆくことを、前提として、貨幣の問題も、そして、それらをまとめての、全体としての経済の問題も、考えるべきなのでしょう。
 ただ、この考え方は、経済の問題について、「日本の国内の」経済の問題として、限定して、捉えている、考え方ではあります。
 「国際の」経済の問題に関しても、「人口、市場、貨幣」という階層についての見方は、そのまま、当てはめることができるでしょうか。問題の意識のみ、ひとまずは、ここに書き留めておきます。

4 教育

 昌平坂学問所や藩校で、「儒学」を教えていたこと。そのことは、現代日本の大学教育にも、ひとつづきのものとして、影響しているのかもしれません。
 現代日本の大学受験は、儒学における「科挙」なのかもしれません。そうであるとすれば、大学を卒業した学士は、「儒者」であることになります。そして、「儒者」は「儒官」を目指すことになります。
 そのように捉えてみると、現代日本での、大学へ進学する人数の多さは、「儒者の育てすぎ」と、捉えることもできるでしょう。
 「儒者の育てすぎ」は、私がテキスト批評『人事管理入門』において述べた、「ジェネラリストの育てすぎ」にも、意味として、通じます。
 現代日本においても、寺子屋のような、「実学」を教える学び舎が、もっとたくさんあっていいのかもしれません。

5 都市住民

(1)東京の形成――誰が?

 江戸という都市について、形成したひとたちは、武士でした。
 それでは、東京という都市について、形成したひとたちは、どのようなひとたちだったのでしょう?
 仮説。幕府・各藩の武士たちが、政府に仕官して、江戸・東京に、再び、やってきた。彼らが、東京を形成していった。そのような経緯があったのかもしれません。だからこそ、学問所や藩校と同じような、教育に対する、「教える者・学ぶ者の姿勢」つまりは「儒者の姿勢」が、残ることになったのかもしれません。
 同じようなことが、太平洋戦争後にも、あったそうです。旧政府の運営に、携わっていたひとたちが、新政府の運営にも、携わっていった。その方が、新しい秩序について、形成してゆく労力が、ある程度、省略できるからです。このことは、日本史学者であるジョン・ダワーさんが、指摘しています(『敗北を抱きしめて』岩波書店)。

(2)参勤交代――中央と地方の意思の疎通

 参勤交代は、中央と地方との、意思の疎通のための制度でもあったでしょう。参勤交代によって、ひとびとが、中央と地方とを往復してゆくうちに、相互の情報を、共有できるようになっていったはずです。
 その制度が、明治維新によって、無くなりました。参勤交代という、意思疎通制度が無くなったことによって、中央は中央のことのみを、地方は地方のことのみを、考えるようになっていったのかもしれません。

 付記。今回の、江戸・東京の、通史・概観。その概観によって、私が感じたこと。それは、次のようなことでした。

――私たちが「日本近現代史」だと考えている歴史は、「中央近現代史」とでも呼ぶべきものなのかもしれない。

 それぞれの地方には、それぞれの地方の、近現代史が、あるはずでしょう。

6 崩壊と再建

(1)再建したひとびと

 戦後まもなく、荒野になった有楽町・新橋で、畑を作ろうと、クワをふるう、女性。その女性の姿から、私は、個人的に、励ましを受けました。
 すべてが崩壊しても、そこから、自分の生活を、再建していったひとびと。そのうちの、ひとりの姿が、そこには、写っていました。
 この女性の姿から、私は、宮崎駿さんの映画である『もののけ姫』に登場する、女性の台詞を、思い起こしました。

――生きてりゃ、何とかなる!

 戦後まもなくの、日本の社会の、「崩壊」と、「再建」。それらのことに関しての、「ひとびとの足あと」について、あらためて、個人的に、学びたくなりました。

(2)崩壊の性質

 私は、今年のはじめに、「考えの足あと/2022年・年始『戦後の準備をしなければならない』」において、「これから、崩壊の時代がはじまる」と、書きました。
 その、これから起こるかもしれない崩壊は、「震災や戦争による、インフラの崩壊」ではなく、「失政による、政治経済システムの崩壊」なのでしょう。
 政治経済システムの崩壊は、戦後まもなくの崩壊に限らず、歴史の上では、未曽有のことでは、ありません。
 たとえば、作家である堀田善衛さんは、そのエッセイにおいて、同じ時代に起こった、東ドイツ国の崩壊のことを、書き記しています(「国家消滅」『天上大風』ちくま学芸文庫)。東ドイツ国は、西ドイツ国が、統合しました。東ドイツ国の貨幣も、西ドイツ国の貨幣が、統合しました。その統合にあたって、東ドイツ国の貨幣は、西ドイツ国の貨幣に対して、相当な安値での、取り扱いを、受けたそうです。

7 生活革命

――東京に、アメリカの生活様式が、流入してきた。「生活革命」。

 このことは、「外国の資本が、日本に流入してきた」ことをも、意味しているでしょう。
 このことに関連して、経済史学者・石井寛治さんは、次の趣旨のことについて、研究してきたそうです(日本学士院・会員プロフィール)。

――明治維新において、外国の資本が、日本に流入しようとしてきたとき、日本の資本が、その流入を、防いだ。

 江戸城の無血開城も、佐幕派と討幕派との、「いまは、内戦によって、日本の資本を、消耗するべきときではない」との、共通の認識があって、実現したのかもしれません。
 そして、そのような認識を、彼らは、「同じ時代に、中国が、外国からの資本の流入を、既に受けていたこと」から、得ることとなったのでしょう。

 付記。中国において、社会主義革命(労働者による革命)が起こったこと。その要因のひとつとして、次のようなことが、あったのかもしれません。

――当時、中国において、資本家は、外国人だった。中国人は、大半は、労働者だった。だからこそ、「労働者による革命」が、起こった。

 資本主義は、帝国主義も、伴っています。その資本主義による帝国主義に対抗するために、アジアにおいて、特に、中国において、社会主義国家が成立した。そのように、理解することも、できるのかもしれません。
 そして、東欧においても、中国と同じような状況があって、ソビエト連邦が、成立することになったのかもしれません。

8 三種の神器――テレビ

 テレビの普及の延長線上に、パソコンの普及、そして、スマートフォンの普及があるでしょう。
 このことに関連して、詩人・吉野弘さんによる、お子さんのことをうたった「一年生」という詩に、次のような一節があります(『妻と娘二人が選んだ「吉野弘の詩」』青土社)。

――テレビにばかりかじりついてッ

 テレビにばかり、かじりついている、子ども。そのような子どもと、同じような状況に、パソコンに向かい、スマホを眺める、私たちは、陥っているのかもしれません。
 パソコンやスマホからのブルーライトを、目に浴びながら、私は、作家・開高健さんによる小説の題名である、『輝ける闇』(新潮文庫)という言葉を、よく思い出します。
 この「輝ける闇」という言葉は、もともと、哲学者・ハイデガーの言葉でしたそうです。

――現代は、すべてのことが明らかであるようでいて、まるで何も分からない時代である。「輝ける闇」である。

 その「輝ける闇」について、私としては、正直な話、次のように考えることがあります。

――パソコンやスマホを使いながら、仕事をしていると、気が散って仕方がない。
――それなのに、大事なことは、分からずじまいで終わる。
――パソコンやスマホを使わないで、仕事ができればいいな。

 このような話を、そのパソコンやスマホを通して、ブログやフェイスブックに書いているのですから、その実現は、いつになることやらです(笑)

9 住まい

 「日本家屋においての、座布団での生活」から、「マンションにおいての、イスでの生活」へ。その移り変わりは、戦後になってからのことだったのですね。
 江戸東京たてもの園の、常設展には、そのように移り変わる前の、古き良き東京の住まいが、展示してあるようです。それらの住まいと、いまの自分の住まいとを、見比べた上で、これからの自分の住まいについて、考えていってみたいです。
 このことに関連する、社会学者・上野千鶴子さんの言葉(『女の子はどう生きるか』岩波ジュニア新書)。

――差異から情報が生まれる。

 思い付きメモ。
 個人的には、小金井公園が、とても気に入りました。小金井が、スタジオジブリの本拠地であることについても、個人的に親しみを感じます。
 また、私には、以前、三鷹にある司法書士事務所に勤務していた時期も、ありました。その時期に、私は、小金井の近辺も、電車や自動車で、よく巡っていました。
 たとえば、平日は、都内の、職住近接のワンルームに滞在して、もりもりと、働く。週末は、小金井の一戸建てで、のびのびと暮らす。体を動かす。このような生活は、私にとっては、ひとつの理想となるような生活です。
 なお、物件の価格については、池袋のワンルームが、おおよそ3000万円。小金井の一戸建てが、おおよそ5000万円でした。お金が、ずいぶんとかかることには、なります。それでも、これくらいの目標を、自分に対して、掲げておいても、いいのかもしれません。ひとつの目標を掲げて、努力を続けると、たとえ、その目標が達成できなくても、次の目標を目指すにあたって、それまでの努力が、活きてくることが、ままあるものです。

10 高速道路

――高速道路が、日本橋の上にも、通った。

 このことについて、宮崎駿さんが、次のように語っています(DVD『ジブリの本棚』)。

――日本橋の上に、高速道路を通したひとは、死ぬまで後悔して、死にました。

 どのようなひとが、どのような考えで、日本橋の上に、高速道路を、通したのでしょう。そのことに、個人的に、興味があります。

11 高層ビル

 高層ビルを見るたびに、個人的に抱く、感想があります。

――たとえば、50年後に、このビルを解体することになったとき、誰が、どのように、解体するのでしょう?

 自分が、収拾をつけることができるかどうか。そのことについて、あまりにも、成算がないこと。そのようなことに、ひとは、手を出すべきではないでしょう。
 自分が、死ぬまで、存続する、建物や、制度。それらは、そのひとにとっては、「永続する建物・永続する制度」にあたるのかもしれません。しかし、自分の立ち上げた建物や制度が、老朽化したときには、そのひとは、それらの解体に、関わるべきでしょう。せめて、解体の方法について、次の世代に、伝えておくべきでしょう。結んだひとには、結び方が分かっているはずです。結び方が分かっているならば、ほどき方も、分かるはずです。
 さしあたり、私としては、霞が関ビルディング(1968年築)が、これから、どうなってゆくのか、注目しておくことにします。

12 なぜ都市ができるのか

(1)動物としてのヒトの群れ

 この特別展においては、「そもそも、なぜ、都市ができるのか」ということについての、説明は、ありませんでした。

 そのことに関連して、動物行動学者・日高敏隆さんは、次のように語っています(『人間はどういう動物か』ちくま学芸文庫)。

――人間に限らず、動物は、群れをなすもの。
――群れでいた方が、外敵からの攻撃が、自分に当たる可能性が、小さくなる。
――そして、群れでいた方が、外敵に、集団で対処することができる。

 このような、動物としての、ヒトの習性。その習性が、都市ができる、その要因の、ひとつなのかもしれません。

(2)群れの防衛/防衛費の増額/若者に武器を与える

 上記の、日高さんの言葉から、私は、現今、問題になっている、「防衛費の増額」のことを、思い起こしました。
 「防衛費の増額」についての、「外敵に備えるため」という名目。その名目は、「動物としてのヒト」の、集団としての結束を、強めようとする、名目です。「動物としてのヒト」に、通用する名目であるために、誰にとっても、分かりやすい、名目です。
 ただ、外国脅威論は、国内の結束を強めることには、つながるかもしれませんけれども、国外においての、日本の孤立を、深めることにも、つながるかもしれません。
 ひとは、「動物的存在としてのヒト」であると同時に、「理性的存在としての個人」でもあります。「理性的存在としての個人」が、相互に信頼し合うことによって、社会は成立します。このことに関連する、日本国憲法の、前文の、言葉があります。

――日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 この日本国憲法の言葉からすれば、外国脅威論と同じ以上に、外国信頼論も、あっていいのでしょう。
 外国脅威論が、かえって、その国を、戦争へと至る道へ、導いてゆく。そのことは、日本近現代史が示しています(半藤一利『昭和史』平凡社ライブラリー/加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社現代新書)。

 そして、「軍備を増強すること」は、「困窮した若者に武器を与えること」でもあります。
 これから、社会の不安定さが増してゆくなかで、武器を与えた、若い自衛官たちを、政府は、統制してゆくことができるでしょうか。
 元自衛官が、元首相を、銃殺する国において、です。

 日本国憲法・第9条による「戦争の放棄」は、私としては、「旧日本軍による統治は、もうたくさんだ」という、日本の国民の、意思の表示でもあったものと、理解しています。

 経済の状況の悪化のなか、外国脅威論に基づいて、困窮した若者たちに、武器を与える。
 このような道は、先人たちが、歩いてきた道でもあります。
 そして、そのような道を選んだ、その結果について、先人たちは、痛感とともに、伝えてきてくれています。
 先人たちと同じような道を、私たちは、歩まない方がいいでしょう。
 外患よりも、内憂に、取り組んでゆくべきでしょう。
 内憂とは、たとえば、私が上の3において述べた「経済の問題」です。

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